琴乃は悪夢の中にいた。

 休息を得るはずの眠りの中で彼女が得たものは絶望。夢にまで入り込んでくる、拭い切れない汚らしい過去。

 何もかもが鮮明、数百と繰り返された行為。蜂屋に犯され続けた妾時代。夢であるのに音も臭いも空気もそのまま、いや、夢であればこそ悪夢の迫力をもって全てがおぞましい。

 蜂屋はとにかく琴乃の美貌とその豊麗な肉体を愛していた。
琴乃は快楽を感じたことなどなかった。だが蜂屋は自らに向けられるその嫌悪をも愛していた。嫌悪する相手に凌辱されるしかない琴乃の苦しみ、それを醒めることの無い興奮の肴にし、果てることなく琴乃の女を犯し抜いた。

 琴乃は快楽を感じたことなどなかった。身体中を舐めずり這い回り、肉の内にさえ分け入ってくる蜂屋の手やぬめった舌、そのおぞましさ、まさに毒虫の這いずるがよう。自らの棲家かがごとく琴乃の穴という穴へ潜り、蹂躙し、粘った汁を噴き溢す。その異様な執着は毒虫による熱烈な求愛活動のよう、卵を産み付けられているかの生理的な拒絶しかなく、常に吐き気と殺意を堪えていた。



 いつか殺してやる。


 それだけを考え続けた。

 憎悪の中において自らの生の価値などとうに消し飛んでいたがしかし、夢はあった。成功し、誰もが羨む生を勝ち取ること。屈辱と絶望が育てた歪んだ夢。それは復讐であった。自らの境遇に対する。

 だが本当に、血の一滴までその一念()わたり、心を悪鬼に染め上げていたならば彼女はもっと凄惨な使い手になっていたであろう。

 幸であろうかはたまた不運であろうか、彼女がそうはならなかった理由は二つある。生来持った正しき性根と、そこから生ずる優しき情を常に向けうる人物がいたからである。だからこそ奈落に落ちる手前、際の際で数年間、落下の昏き誘惑を撥ね退け続けられたわけである。


 琴姉


 彼はいつもそう呼んでいた。

 所在なさげで、不安そうで、この上なく頼りない。しかしその声音は善に溢れ、憎しみを憎むことさえ知らず、ただその純粋を慈しみ守ってやりたいと人に思わせる、良き心を生み出す清らかな泉そのものであった。


 琴姉


 そう、いつもそう言っていた。

 この声があったからこそ耐えられた。あれを手にするまで。


 あれ。落牡丹。


 認めた瞬間、優しい輪郭をつくっていた思いは引き千切れる。場面は切り替わり、血飛沫が眼球を打つよう、見渡す限りの血みどろに。


 新しい人生の始まり。

 幕開けは派手に、大斬殺。

 時は静けな夜。血花が音無く狂い咲く。狂々(くるくる)狂々、狂々と。

 

 琴姉

 

 しかし不意にその一言、自らを呼ぶ声。頼りなく、優しげな、いつも自分を案じてくれた声。それは斬殺の夜に一条の光のように射し込み、場面そのものを切り崩した。




 そして瞬間、開眼、覚醒。

 眠りから覚める。

 が、悪夢からは脱していない。

 傍らに人の気配。

 戦慄し、布団を切り裂きながらその中に潜ませていた落牡丹をその者の喉元に突き付ける。


 明け8刻。

 皓々たる朝日が障子を突き破り白む室内。撒き散らされた綿は白雪の如くふわりふわりと舞い落ちて、時を遅く廻す。

 そしてゆっくりと意識を現実に戻し自らの行為を自覚していく中、眼に走った血は消え、昂りは慚気へと収束していく。


「・・・・・・三平」



 眼前の人物を見つめ、琴乃は呟く。

 全身からどっと力が抜ける。そのまま倒れ込み、今度こそは安らかなる眠りを貪りたい、そんな激しい欲求に駆られる。

 しかしそれはしなかった。

 なぜここに三平が、という疑問と、普段であればとうに起きている時刻であること陽の明るさから察したところにある。


「大丈夫ですか?」


 三平がここにいる不思議、琴乃のそんな疑問など当の本人まったく気に掛けることなく、ただ気遣わしげな視線を送ってくる。


「ああ・・・」


 琴乃は気も重く、答える。頭が痛い。悪い夢をみた後はいつもそうだ。簡単な言葉を紡ぐ、それさえも億劫になる。

 三平はそんな琴乃に無理に言葉急かすことなく、持ってきたであろう盆にて一杯の茶を淹れる。

「どうぞ、熱いですよ」


 湯気の立つ湯呑をそっと差し出す。


「んん・・・」


 心此処に在らず、そんな生返事を返し、琴乃はゆっくりと茶を啜る。


 寸間、沈黙。


 鳥の声などを聞きつ三平、静かに座る。彼の心の内、もちろん心配もあるが眼前の琴乃の姿に狼狽するといった体はない。この青年のこと、もちろん情の薄さが理由ではない。悲しいかな、この状態の琴乃こそ三平にとり最も印象に強く記憶に刻まれているからである。

 蜂屋の下にいた時代。その頃の琴乃は虚ろでほとんど死んだようであり、しかし不意にその身が業火に包まれたかと錯覚するほどありありと憎悪を
(おもて)に宿すことがあった。三平は思う。あの頃に戻ったようだ。酷くうなされていた。昔の夢をみていたのかもしれない

 三平は眼を伏せ、琴乃が自然、穏とほぐれるのを待とうと思う。
 
しかしふと思ってしまう。この人にそんな時が訪れるのか。
彼女に刻まれた傷は深い。心のものである、治す手立ても具体性を持たず、苦痛だけが毒のように湧き出で心を蝕み続ける。

 無邪気に触れ合った幼年時代。あの頃の彼女はもういないのだ。もちろんどうにかしたいと思う。自分も医者だ。救ってやりたいと思う気持ちに身体も心もない。だからこそこうして会いに来た。それ以外に確たる用件はない。

 確かに三平はこの間の再会まで意識的にかぐや候補である琴乃の事を考えないようにし、三千月夜宴場で遠目に映っただけで視界から彼女を外し、早々にその場を離れるようにさえしていた。

 理由は恐怖である。長年の友愛さえ凌いでそれは三平を(めくら)にさせた。忘れもしない出奔の夜。思いだす。

 

小さな悲鳴で目を覚まし、胸騒ぎ。
恐る恐る様子を見て回ればあちらこちら目につく血痕。血の気が引き、脚が
(すく)んだ。
その時、風が強く吹き月にかかる雲が払われた。と同時、風上から
いやな臭いが流れ込む。本能が拒絶する臭い、死臭であった。

 眩しいほどの月明かりの下、改めて見渡せば細切れになった人体の一部がそこら中に散らばっていた。恐怖で足元から崩れ落ちそうになるがしかし、三平は進んだ。より血痕と散らばる死体が多い方へ。

 本来ならば何処かで息を殺し隠れていたい、だが進んだ。小心の彼をしてそうさせたのは琴乃の存在であった。彼女の安否を確かめる。誰がどういった経緯によってこの凄惨極まる状況をつくりだしたかは知らないが、そんなことは三平にとってはどうでもよかった。


 ただ琴乃の無事を確かめたい。

 無事でないなら助ける。

 どう助けるのか?

 知恵も力も無い自分である、それを考えると必死の決意も折れそうになる。が、見捨てるような真似だけはできなかった。

 しかしそれはすぐに杞憂であること判明した。微かな物音辿っていけばなんてことはない、心配無用の残酷な事実。惨劇を起こしているのが琴乃その人だったのである。大振りの鎌で害虫でも払うよう無慈悲に、命乞いなど煩わしい羽音同様、聞く耳持たずに切り裂いていく。

 三平は思わず悲鳴を上げた。

 琴乃は振り返った。

 返り血ひとつ浴びぬ彼女は月明かりを浴びて美しかった。しかしそれは人の温度の無い凄惨な美しさであり、三平にはそれがとても恐ろしいものに見えた。

 自分も殺されるのだろうか。この時三平は異形の殺意を覗き、自らの死をも覗き、心も限界、気絶してしまったのである。



 だが結局、三平は殺されなかった。

 目覚めると何が起きたか、といっても琴乃が運んだのだろうが、関を抜けた隣国にいた。そこで出来た人に拾われ、満足いく教育をも施してくれた。恩人である。

 しかし結果をみれば大恩あるは琴乃も同様である。今現在の自分は琴乃あってのもの。全ての人間を切り裂く斬殺の嵐の中においてさえ三平にだけは刃を向けなかった。それは彼女の中に残った正しさなのだろう。しかし一方で虫でも払うように簡単に人を殺した。

 三平はすぐにでも琴乃を探したいという衝動と二度と会いたくはないという感情を覚えた。会いたいが会いたくない。大事な人である。友愛と恐怖。相反してなどいない。それは代わりの無い無二の存在への情愛から端を発する苦悩の渦である。その苦悩は時を重ねるほどに重くなり、彼はそれを払拭するかのよう、がむしゃらに医学を学んだ。素養もあったか、若くしてかぐや候補御付き医師という役目も貰った。

 だがここにきて完全なる再会である。

 彼自身、見えないふりをしてきたものの、かぐや候補の琴乃が自分の見知った琴乃であること解っていた。容姿も名前も使っている武器も記憶に深く刻まれた琴乃そのまま、見えないことにしておけるはずがないのである。

 それが如何なる導きか、再び顔を会わせ、会ってしまえば血は繋がらなくとも自分の姉、抑えていた情は甦る。そして時の隔たりも感じさせぬほど、会話も素直に進んだ。蜂屋の妾になる以前の快活な様子も随分戻っていた。しかし素直に喜ぶ気にはなれなかった。

 別離の夜。あれほど冷静に、自らの意思で、無差別に殺しを行ったのだ。変わらないわけがない。
事実、表情と表情の切れ目、付き合いの長い三平にしかわからないほどの一瞬であるが、表情が消える、凍える。目には何も映っていないかのよう、光が消え、虚ろになる。それに加えて自分以外の人間に接する態度が妙に硬いところも気になった。大きな溝を隔ててその対岸から話し掛けているような印象を受けることがある。彼女の元々の性格にそんなところはなかった。


 彼女は変わってしまった。

 それはどうしようもないことであった。

 喘ぎ、苦しむ。

 なんの飾りもない、いわば今現在の彼女の〈素〉を眼前に三平、気は落ちて、朝の清新な光も空気も濁り、それらが沈殿し切り取られた一室にいるよう、ただ息苦しい思いで琴乃を見つめていた





1P

inserted by FC2 system