「清香さーん、いらっしゃいますか?」
翌日、清香の元を三平が訪ねてきた。
「はい」
清香は瞑想を解き、一息ついたところでの来訪である。答え、三平を招く。
「ああ、いましたね、良かった」
三平、撫で下ろしつつ、声弾ませ、
「どうしたんですか?」
清香が問えば
「いや、昨日のお詫びを兼ねて、行き損ねた百獣屋に行かないかって琴姉が言ってまして、
あっ、もちろん僕も行きたいんですけど」
などと、昨日から絶食してたかのよう、腹をさすりさすり、にこやかに。
対して清香は、
「わだかまりは解けましたか?」
食事の話はとりあえず流し、昨日を回想し、余計なお世話と知りつつ、思わず尋ねる。
なにしろ声を掛けられ突然逃げだすところなど明らかに唯の旧知ではない。
清香からすればどうしてもそこが気になるところであり、三平が話したい時でなどと思ったのも昨日の矢先、口が滑る。
「あ、それは御心配なく、有難うございます。
というよりそれも兼ねてというか、まあ、この誘いは僕達二人の総意によるものなので、受けていただければ嬉しいんですが」
そんな言い方をされれば断れぬ清香である。
自らの口の滑りの良さへの悔恨云々よりも、今はこの誘いに応える真摯さこそが重要である、
「そうですか、わかりました。では喜んで参加させていただくとしましょう」
清香は言い、身支度の為、しばし玄関を遮る。
そして清香を待つ間、僅かながら、三平は昨日を回想する。
「元気でやってたのかい?」
と、地面を見つめての琴乃。
「はい」
同じく地面を見つめ三平、応じ、続ける。
「御蔭様で」
言って、嫌味のように響いたらと三平悔やみ、弾けるよう、琴乃の顔を見れば想像は的中、その顔、曇っている。
「でも、後悔はしてないよ」
曇ってはいるが、悔恨は無し、琴乃が言えば、
「いえ、僕の現状は琴姉あってのものだし、琴姉もあのままでいいわけなかったし、あの、僕は今本当に充実しているんですよ。でも、そのかわりに琴姉が苦しいのであれば・・・」
三平は言い淀み、言葉とは素直なもので、例え琴乃が苦しんでいたとしても自分に何が出来るというのであろうか、提示できず、思いを吐露したはいいが、完結できずに尻切れる。
だが琴乃、三平のその想いに何かが報われたかのように微笑み、
「わたしも充実してるよ。もちろん辛い時だってあるさ。だけど今は自分次第で状況を変えられる。それはこの国に於いて途方もなく恵まれてるってことだよ」
琴乃は言う。
そして三平は思う。
その恩恵を得る為に、得るまでに、どれほど琴乃が汚れ、疲弊してきたかを知っているのだ。
蜂屋家での不遇、抜け出る日、記憶に甦る。
しかしそれもそこまで、現れる清香の姿。
「お待たせしました。行きましょうか」
昨日歩いた道順そのまま、五条の通りを西に歩いたところほどなく、
「あそこです」
三平の指差す先には『猪屋』の看板を掲げた大店が。
(猪屋、とは・・・また直感的というかなんというか・・・そのままの店名ですね・・・でも、自らの味への自負も感じます)
思い、勇んで中へ入れば、湯気と匂いに迷い込む。
聞いていた通りの繁盛店である。
店内では多くの人が鍋を囲み、旨味を含んだ湯気が充満し、瞬間、食欲を刺激する。
「三平、清香」
食い気濛々たる中、奥の座敷から聞き覚えある声が上がる。
琴乃であった。
彼女からすれば随分声音は丸くしたものだがそれでも鋭く、一瞬、明らかに店の賑やかな空気がほんの一瞬であるが、途切れる。
琴乃も振り撒くような愛想など持ち合わせぬ性分である。
その美貌もあり、それなりに人気はあれど、気安く接することを許す雰囲気ではない。
店に居る者、意識の一部、常にひっそりと琴乃を捉えており、彼の人が突然声を上げれば、確かに意識はさくりとやられ、刹那の沈黙。
が、それも錯覚であるかの如き瞬間の出来事であり、何がほつれるわけでもない。
無論、誰もが瞬間の切れ目を感じはしたが、それはすぐに賑わいの中へ埋もれていった。
あ、と小さく声上げると、清香はぎこちなくも笑顔で会釈。
三平は勝手知ったる足取りで店内を進み、座敷に案内する。清香は、
「今日はお誘いいただき有難う御座います」
言うと、対する琴乃、
「いや、そんなに畏まらないでくれ。聞けば昨日は昼食へ行く途中だったらしいじゃないか。詫びの印だ、今日はわたしに奢らせてくれ」
言いながら琴乃、今にも懐から有り金全てを掴みださんばかり意気込んで。
「何言ってるんですか、昨日の事でしたら僕にも非はあります。むしろ僕に奢らせてください」
礼節の話になれば甘えの立場に回ることなどまずない清香、こちらも意気込む。
すれば琴乃、
「事の発端はどう考えてわたしの迂闊だよ。言い出しもわたしだし、近付きの印でもある、わたしに払わせてくれ」
「近付きの印であれば尚更、僕にもせめて半分は払わせてください。いえ、そうさせていただきます」
「いや、基本的には詫びでだな、わたしが払うべきもので・・・」
「詫びというのであれば先程言ったように僕にも責任があります。奢ってもらうわけにはいきません」
両者譲らず、生真面目に、盛大に混ぜっ返し合う。
「もういい加減にしてくださいよ、清香さんも琴姉も」
さすがに見かねた三平、生真面目二人に嘆息し、身体を割り込ませる。
「責任云々言い出せば僕にもそれはありますよ。今日はきっちり三人で割って仲直り、それでいいじゃないですか」
この件に関しては清香も琴乃も三平に頭が上がらない。
その彼をして公平な妥協案を提示されれば従わぬ理由もなく、
「ですね」
「そうだな、すまん、三平」
納得し、ここでやっときれいに問題は消え去り、三平青年お待ちかねの鍋である。
すとんと腰を下ろせば容易された煮汁はすでに準備万端、煮立っている。
勘定がどうのとの野暮な話がやっとのこと過ぎ去れば、もう一寸の時も待てんとばかり、三平は煮立った煮汁に猪肉と野菜を次々投入しだす。
がっついたものではあるがその姿、妙に可愛らしくも映り、
清香と琴乃、三平を囲み、鍋を囲む。
だが三平青年、食い気に支配された彼をして乱雑とは対照的な見事な手並みで美しく鍋を彩っていく。
味噌で仕立てた煮汁に牛蒡、人参、蒟蒻、長葱、椎茸、豆腐、猪肉が彩り豊か、味豊かに並び、潤むように煮汁に溶け込む。
そして一同、立ち上る香りを嗅げば、
なんだろう、馳走の香りというものは自我をごっそりと奪い、人を食欲によって支配する禁断の外法のようではないか。
「では、いいただきます」
食材全てに火が通ると、三平青年、待ちかねたように箸を手に取る。
もはやその口からは涎が溢れんばかり、言葉などしばらくは出てこないように思えるほどだ。
「待て三平。猪肉はもっと煮込んだ方が美味いぞ。もう少し待て」
しかしそこで待ったをかける琴乃と、それに黙って頷く清香はさすがである。
極上の馳走を前にしても心揺るがず、食べ頃というものを心得ている。
この物言いは大袈裟であろうか、いやいや、適度な空腹でもって眼前の馳走に冷静でもって臨むは只者ではない。そこまで言えばやはり大袈裟だろうか、いやいや・・・いやいや・・・まあ、確かに猪肉は煮込むほどに柔らかくなり、こくが増すのは確かである。
「いいんです、琴姉。僕は敢えてそれを食べるんです」
駄々というほどではないが三平、聞き分けなく言うと、鍋に箸を突っ込もうとする。
「わかったわかった、じゃあよそってやるから」
無理にでも止める気は無いらしい、微苦笑の琴乃は言って三平を制すと、彼に適量取り分ける。
「ありがとう、琴姉」
素直に礼を言い、肉を頬張り、旨味に痺れる。
間髪入れず、今度は肉と野菜数種を口に入れ、もぐもぐと咀嚼し、味の至福に酔いしれ、呑み込む作業が疎かに。
「そんなに詰め込むから」
と言いながら、三平に冷たい茶を渡す。
「ありがとう、琴姉」
茶で喉元開通させた三平、さっきと同じく礼を言う。それを見て清香、思わず小さく噴き出す。
「本当に姉弟みたいですね。阿吽の呼吸というか」
「わたし達は同郷の出でね。まあ幼馴染みたいなもんさ。ずっと昔からの縁だよ」
天気の話題でも振られたような気安さで琴乃は明かす。
重い話題を敢えて軽く、という類のわざとらしさは無い。もはやそれは彼女なりに消化された過去なのであろう。
がしかし、どうにも言葉に表し難い暗さが暗雲のようにその顔に微かに垂れ込めた。
「そうなんですよ、だから琴姉は本当に姉のような存在でして」
三平もある程度は気持ちが整理されているのか、にこやかに追従する。
だが琴乃と同じく顔色には微かに暗みが差す。
二人とも意識してのことであろうか。いや、無意識のものであろうか。とにかくも笑顔のみでは語れぬ過去があるのだろう。
となるとやはり昨日の出来事、どうにも込み入った事情がありそうである。
少なからず係わってしまった以上気になるのも当然、当事者でもある清香からすれば疑問に思うは仕方がない、が、彼女に追求する気は無い。
三平と琴乃。
確かに血の繋がりはなくとも本物の姉弟同然、深い慈しみの情を持ち寄っているのは昨日会ったばかりとはいえども理解できる。
だがそれならなぜずっと音信不通、離れて暮らしていた。
しかも三平は京において琴乃の存在に気付いていながら接触しなかったようである。
接触しないということは会いたくないという何かしらの理由があるということで、およそ大事な姉に対して取る行動ではない。
しかしいざ顔を合わせれば長い別離を感じさせぬと見える和やかさ・・・
(いや、詮索しないって思ったばかりじゃないですか)
清香は野次馬じみた(実際にかかわりがあるのでそこまで下卑たものではないのだが)考えを律する。
とにかくは眼前の鍋に意識を向ける。
表向きだろうが何だろうがこの集まりの目的は鍋を食うことである。
それにこの場をもって二人の何らかの気まずさなどが軽くなればこれにこしたことはないではないか。
清香は良い具合に煮えてきた猪肉を頬張ると、なんとまあ素直に感嘆と、
「美味しい!」
と声が漏れる。
「ほらほら、琴乃さんもどうぞ」
と清香は、絶品間違い無しの猪鍋を琴乃に取り分ける。
「あ、すまん、ありがとう」
受け取り、それを頬張ると、やはり琴乃も同じく、
「美味いな」
抑え目の抑揚ではあるが、評価は二人同様に高い様子が窺える。
そして、それからしばらくとりとめのない話に興じた後、
「でも昨日は色々と失礼しました。僕って視野の狭い人間で、これは本当、最近身に染みていることなんですが、他のかぐや候補の方のこともほとんど知らなかったような状況でして、ここで改めて謝りますね」
頃合いよしとみたか、清香は言う。
空気もこなれ始めた辺り、言葉もあまり硬くは響かないだろうと踏んでのことである。
事実、場所柄もあってか、良い意味で砕けた調子にそれは響いた。
「いやいや、視野が狭いっていうのならわたしこそだよ。実はわたしもあまり他の候補のこととかそんなに知らなくて・・・顔と性格をなんとなくって程度でな。あとはどんな戦い方をするかくらいか。でも結局昨日は冷静を欠いて清香にも気がつかない始末だしな」
などとばつ悪そうに言うが、やはり鍋を囲んでの柔らかな調和が作用するのか、はにかみ顔の琴乃である。
といってもさすがに他の候補であれば気付いていたであろう。
御披露目後の宴席などにまったく現れない清香が相手であるからこその不覚である、とは琴乃の名誉に対して記しておくべきであろう。
「でも今年のかぐや候補は全体的に出色してるって話を聞きましたけど、まんざらでもないですね。自らを誇るとかではなくて」
ここで一区切り、話題を変えようとして清香、思わず琴乃を見据え武人の眼に。
「確かに、それは同感だね」
さっきまでのはにかみもどこへやら、琴乃も清香を見据える。
「あの真空の刃、速度も威力も相当に加減してましたよね?」
「相当に加減って程でもないさ。でもまさかあれを簡単に斬るとはね」
「簡単ってほどではないですよ」
「謙遜しなくていいさ、自信があったからやったんだろ?」
「本気を出されていたらどうだったでしょうね」
「だから謙遜なんてしなくていいさ。言っておくけどあれをあんな綺麗に斬れたなら、本気で出したやつも多分斬れるよ」
「そちらこそ御謙遜を」
などと物騒な会話も両者不敵の笑みも場の効果か、なんだか友好的な空気をつくり、三平、多少はらはらしつつも鍋を貪っている。
しかし取り分けた分を呑み込むと、食欲もとりあえず落ち着いたか、会話に参加する。
「でも実際、琴姉も集中すると意外と周りが見えなくなりますよね。その辺、清香さんと似ていますよ」
言われれば返す言葉無しの二人、黙って食す猪鍋の味は変わらず絶品なれどどこかほろ苦い。が、琴乃は思う。もう三平も子供ではないのだ。
「でもまさか三平が清香の、というか、かぐや候補御付き医師になってるなんてね、驚いたよ」
「自分で言うのもなんですけど、頑張りましたからね」
殊勝な彼をしてもそこは自ら誇れるところなのか、三平は言う。
「まあ、色々と危なっかしいですけどね」
先程のお返しとばかり、含み笑いながら清香。
「それは清香さんだって同様ですよ」
負けじと三平が言えば、
「まあまあ」
琴乃がなだめる。
鍋を囲んだ三人、朗らかに距離は縮まり、なんてことのない会話に笑いが生まれる。和やかな食事であった。
1P