「清香さん。どうせここまで来たなら食事でもどうですか?
評判の
時刻は明け2刻、
中天を仰げば太陽は燦燦と煌めき、人も世も遍く照らす日照の時である。
昨日のこともあり、一応の警戒ということで清香は買い出しを口実に三平を街中まで送っていたところ、彼から昼食の誘いがあった。
「百獣屋ですか・・・久しく行ってませんね」
清香は呟き、思案する。
すると久しく忘れていた肉の味が舌の上で甦り、それを食すことに抗い難い誘惑を感じる。
「そのお店は近いんですか?」
「はい。五条の通りにあるんで歩いてすぐですよ」
「そうですか。ではせっかくですし行ってみましょうか」
「そうこなくちゃ、案内しますよ」
案外と乗ってきた清香に三平は嬉しさを隠さず歩き出す。
「でも本当に最近は百獣屋が繁盛してますよね。
まだ京ではあまり見かけませんが、近年、江戸では豚や牛の肉もよく食されてると聞きますし」
あまりやり過ぎにならなければいいが、と思うところも清香にはある。
血肉をつくる為に肉を食うことの効果は覿面であり、正しく調理すればこれがまた美味い。
絶対的に禁止するべきなどとは言わないが、需要が増えれば当然として屠殺される量も増える。それを考えると百獣屋に向かう足も鈍りかねない清香である。
先程清香が言ったように、肉食文化が開花したのはここ数十年の出来事であり、百年以上前から見れば信じられないような光景であろう。
元より肉食の習慣は所々であったが、国の主たる食文化の一つとなったのはここ数十年のことである。
昨今の流行りの一因としては現幕府将軍・蓮月豪徹が獣肉を好むと公然と明かされていることが要因として小さくはない。
元より法で禁じられていたわけではない獣肉食い(古来、宗教より端を発し、近年では国民感情として半ば惰性で忌諱されてきただけ)は国の最高権力者が主食とすることで決定的な転換を迎えた。
先見の目を持つ者は各地細々やっていた百獣屋を都市部中央へ押し上げ、町民の興味を煽り、瞬く間に繁盛した。
「そうですね。味噌や味醂醤油で煮込んだり、鉄板で焼いて食べるのも流行っているらしいですよ」
三平が言うと、杞憂はひとまず、清香はどこか悪戯に笑い、
「へえ、そうなんですか。
でもなんしても今から美味しい山鯨の鍋を食べたなんて後で言ったら、咲夜さん悔しがるでしょうね。別れた直後のことですから、ふふ」
憐れ咲夜とばかり、橋の袂で別れた彼女に対しては御愁傷様という塩梅である。
「ですね。どうせならさっき思いついていればよかったんですけど」
案ずるかのように言う三平もしかしまた、どこか悪戯な笑み。
もちろん他意など無い。僅かばかりの触れ合いではあるが、二人とも咲夜を気の置けない友人として思うようになっていた。
そのように清香と三平が談笑しながら五条の通りに出て、しばらく歩き、京でも指折りの料亭『柳川』を横切った時、蓮月全土広しといえど人の縁の前には狭し、まるで神事の導きであろうかと心に衝撃与えられたるは琴乃であった。
「三平!」
月日は経てど見間違えようもなし、琴乃はその面影に声を発さずにはいられなかった。
しかし当の三平、声の主を認めると、奇妙な動揺を顔に浮かべ、やにわに走りだす。四肢の駆動は冷静を欠き、明らかなる逃走。
「え、さ、三平?!」
清香は状況の理解は後に回し、兎に角も三平の後を追う。
「三平!」
琴乃も状況の理解など捨て置き、三平を追う。
「警備を頼む」
他の付き人に言いつつ、加速する。
一人どたばたと走る少年に対し、追うは二人のかぐや候補である。
純粋な脚力でみれば、本来かぐや候補がすぐに追いつくはずであるが、場所は人で溢れる天下の往来であるに加え、三者三様の動揺が足にきている。
意外や意外、三平は長々先頭を走り、五条の通りを西に抜け、その境にある竹林の中にまで分け入り、そこでやっとのこと消耗した様子であった。
三平自身、なぜここまで必死になって走ったかは正直よくわからない。
強いていえば、整理しきれていない問題に突然直面したことが理由だと言える。
世の中、広いようで狭い。実に狭い。
やはり、かぐや候補の琴乃は、自らが見知った琴乃だということなのだ。
三平はそれを認める。感情は底面に重く垂れ込める思いである。
酸欠気味の頭でそれだけ確認した頃には、清香と琴乃が竹林を掻き分け走る音が背後から聞こえてくる。
二人のかぐや候補は消耗しきった三平を視野に収めると、もはや捕り物じみた追いかけ合いはせずに済むとみたか、竹林の中、対峙する。
どちらも些か冷静を欠いた状態であり、
絡まり易い正義感を持つところも似て、お互いが警戒を露わに睨みあう。
「なぜ彼を追うのです?」
清香が口火を切る。響きは明らかに剣呑である。
「お前こそなぜ三平を追っている?」
琴乃が返す。これまた剣呑な調子である。
はっきりいえばどちらの言い分も、それぞれの視点からだけみれば分からなくもないことではある。
清香からすれば、目の前の女が三平の姿を確認、名を呼んだ途端に彼は前後も無く逃げるように走りだしたのだ。琴乃に警戒するは仕方の無いことである。
そして琴乃からすれば、清香と三平が知り合いであることなど露と知らず、まして明け二刻の往来、肩も触れ合わんばかりの人出である。
そんな中で長年気に留め続けた面影が目に飛び込めば、それ以外の人間など埒の外に置かれたとて誰が文句を言えおうものか。
琴乃からすれば三平の突然の逃走を追えば目につく清香である。これを三平の脅威と捉えても(些か浅慮ではあるが)やはり仕方が無いことである。
二人は沈黙する。
互いが相手を元凶と思っている状況である。
対話の間を潰しながら緊張ばかりが広がる。
「もう一度訊きますよ?なぜ彼を追うのですか?」
再度、清香。
琴乃は呆れたような空気を挟み、
「それはこっちの台詞なんだけどね」
明らかに意識が攻撃性を持つ。
肩に掛けた落牡丹を抜き、無造作に右手にぶら下げる。
大鎌の剥き出しの凶形が血の臭いを放つかのよう、清香も左手を龍切の鯉口に手を掛け咄嗟の抜刀に備えた。
「い、いや・・・そうじゃなくって・・・」
三平は呼吸乱したまま言うが、もはや二人の空気は一種の臨界を越え始めてしまい、とても届かない。
無論、お互い無闇に武力を行使する人間ではないが、守るべきものは何が何でも守ろうとする人間である。そこに火がつけば簡単には収まらない。
「・・・っ」
琴乃は聞こえるか聞こえない程の舌打ちを打つと、
「頭に上った血を抜かないと話にならなそうだね」
言い、
「応じます」
あくまで折り目正しく、しかし右手は柄を握り返し、清香。
「すぐ終わらせてやるよ」
とは琴乃だが、眼前の清香は明らかに尋常ならざる強者である。
落牡丹に力を込める。
「・・・」
眼前の鎌使いから発される圧力に、清香の警戒は瞬時に最大のものに膨れ上がる。
(この感覚・・・もしかして、いや、間違いない、大業物です・・・何故こんなところに・・・)
簡単にいなし、制圧できる相手ではない。
清香の思惑としては、あくまで相手の攻撃を全て無傷で受けきることで向こうの戦意を発散・喪失させ、最終的には対話に持っていくことである。
もちろん眼前の女に対して不信や怒りも当然覚えているが、彼女を傷つける理由にはならない。
清香という娘はどこまでいっても清香という娘、ということである。
(ですが、それも難しいかもしれませんね)
清香が心中呟き、事を如何に収束させるか惑ったところ、それは突然襲い来た。
「!」
琴乃がぶら下げた落牡丹を垂直に振り上げる。
立ち位置は変わらず、ただそれだけであるが斬撃が生じた。
清香は咄嗟半身になると、鼻先を不可視の刃が突き抜けてゆき、背後にある竹を幾本も切り裂いた。
(真空の刃・・・)
「よくよけた!」
言いつつ、琴乃はさらに鎌鼬を発生させる。
(・・・鎌の軌道さえ読めば)
清香は飛来する真空の刃をかわしながら間合いを測る。
不可視の刃といっても発生源は相手の持つ大鎌である。鎌の振りさえ見極めていれば避けることは可能である。
清香は柄に手を掛けたまま、最小の動作で鎌鼬を避ける。
竹林の中、抜刀し無駄に自己の面積を増やせば動きに支障をきたす。
相手の攻撃範囲は広い。大鎌自体が標準の刀より遥かに間合いが広いことに加え、真空の刃を飛ばすことができる。
なれば一気に懐へ入ることが肝要である。至近距離になれば逆に相手の月器の利点は消える。大鎌の振りあっての鎌鼬であり、その大鎌自体が小回りの利く代物でない。刀の間合いに入りさえすれば清香の圧倒的有利は確実である。
しかしこれだけの使い手の懐へ入るにはそれなりの賭けが必要となる。
だが清香の頭の中にはその図面がある。あとはそれを自らが成せるか、そこに限る。
(・・・龍切ならできるはずです)
清香は覚悟を決め、今まで保ってきた間合いの内へ切れ込む。
相手はすかさず鎌鼬を一閃。
真空の刃は横向きに、竹を切断しながら清香の胸部目掛けて飛んでくる。
速度は落とさず、清香は前傾になってそれをかわす。
琴乃は先の振りの勢いそのままに身体を沈め、独楽の如く回転し、すぐ様に清香の足元目掛けて鎌鼬を放つ。
その連斬は時間差に於いて一瞬の間である。速度を落とさず前傾にかわす清香からすれば上下同時に斬撃を向けられるに等しい。
だが清香は一瞬先の斬撃を前傾でかわした直後、踏み込んでいた右足首のみで重心を縦から横、瞬時に切り替えた。足首にて生じさせた捻りをもち、全身を捻り、上下斬撃の隙間を真横に回転して飛び抜ける。
そして着地した左足首はしっかと地を踏み、距離を詰める。
(大したもんだけど)
琴乃は刃を振り上げ、
(これをかわせるか?!)
斬撃飛び越し際の清香へ鎌鼬を放つ。
「はあ!」
清香は捻りの勢い殺さず、着地と同時、
左腰に下げた龍切を中心に身体を内巻き、強く溜めた居合の構えをとり、抜刀一閃。
火線の尾を引き、清香は迫る真空の刃を居合斬った。
「斬った?!」
まさかその切り抜け方は想像を越え、琴乃を呻かせた。
清香は距離を詰める。
相手が虚に呻く一呼吸、それだけの時間を自由に使えれば勝機を手繰り寄せるには十分である。
清香が至近距離で畳み込もうとした瞬間、しかしこの時ばかりはすでに埒外となっていた三平の声が、二人の間合いも戦意をも切り裂いて響いた。
「止めてください!」
本来温厚である青年はあらん限りを絞り、叫んでいた。
清香も琴乃もその声に呪縛されたかのよう、動き止まり、争っている場合ではない、三平を見る。
「清香さんも、琴姉も、止めてください・・・」
声は悲痛、顔は苦悶、加えて涙まで流されれば、二人は手に取る月器すぐに収め、ばつ悪く困惑
「あ、さ、三平・・・」
先程までの勇猛はどこへやら琴乃はおろつき、清香は清香で不思議と呟く。
「ことねえ?」
かくして唐突に二人の衝突は終わりを告げたのである。
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