「例えば、清香の月器の能力。炎を使っていたらさっきの立ち合いはどうなった?」

 咲夜は隣を歩く清香に訊く。

 時刻は暮れ6刻を過ぎ、夕の茜も燃え尽きて、郷愁を生むかのよう、空には紫紺の残照が美しく広がっている。

 夜が落ちるよりも早く、園路に設置された石灯籠には灯が燈されており、やがて闇夜に浮かぶ燐光(りんこう)が幻想という儚い美しさを生むのであろう

 刻一刻と没して明暗入れ替わる世界の中、二人は清香の借家目指し、園路を北側に進んでいた。

「そうですね・・・例えば、初太刀の上段。最初から炎を放っていれば、後方に退いた咲夜さんを丁度良い位置で丸焼きにしていましたね」

「こわっ!」

 清香はまるで得意分野の知識を披露するかのよう、明るく答える。
対して咲夜は怯えている。もちろんおどけたものではあるが。

「まあ、むしろ斬撃を防がれた瞬間に炎を放てばより確実ですけどね。密着した瞬間に炎に呑み込まれます。かわしようがありません」

「こわっ!」

「さらに確実無慈悲に葬るならば手当たり次第に炎を放ち、密林地帯を火の海にしてしまうのが手っ取り早いですよね」

「こっえーよ!」

 咲夜はいよいよ怯え、ぶつぶつと呟く。「おお・・・おお・・・げに恐ろしきは武士っ娘よ・・・」

「ふふ」

 清香は悪戯にほくそ笑む。

 無論、本当にそういった戦い方を清香がしてきた場合、咲夜にも対応のしようは幾らでもある。

 要はただのおどけたやりとりである。

 攻めて、攻められ、両者阿吽(あうん)の了解のもとに遠慮無い会話を楽しむ。
言うなれば年頃の娘同士、内容はどうあれ華やかな談笑である


 高らかな声音、
 甘い吐息、
 舞い上がる嬌声。
 女二人寄れば
(かしま)しくもあり、可憐でもある。
 女人は花である。甘い蜜を蓄え、匂いを放つ。集まればそこには園ができ、晴れやかに繚乱する





「・・・・・・・・・・・・」



 しかし二人は唐突に沈黙。軽やかに刻まれていた歩は止まり、笑みも消える。

 剥き出しの殺意に囲まれていた。

「清香」

「はい」

 咲夜は短く呼びかけ、清香が素早く応じる。だが声は硬い。

(無理もないか)

 咲夜は思う。こうまであからさまな殺意を自らに向けられることに慣れていないのだろう。しかも(これが適切な言い方かはわからないが)上質の殺意だ。

 二人を囲む狼藉者五名。
見かけは浪人にしか見えない粗末な
格好(なり)だが、研磨された殺意が二人に強い警戒を与えている。
研磨とは研ぎである。
研ぎとは鋭利の追及である。
低俗な欲求に依っては成し得ない求道である。
その道を求めることで得た精神、抜き身にすれば斬鉄の鋭さを持って道理である

(全員手練!・・・)

 清香は息を飲む。一体何の理由をもってしてかは分からないが、物盗りなどの類ではないのは確かだ。殺気に俗な欲望が滲んでいない。そしてだからこそ厄介である。退けるのは容易ではない。

咲夜が一歩前に出る。

「あんた達、わっちらがかぐや候補だって知ってのことかい?」

 かぐや候補であるということ。

 これは一般的に蓮月において、絶対的といえるほどに身の安全を保障するものである。以前、三平が清香に言ったようにかぐや候補に法的な保障などはない。しかしはっきり条文として明記され、公布されていないだけで、実はそれは存在した。

 蓮月幕府による統治が始まり200年を優に超え、かぐやも50回を超えるが、当初はかぐや候補が襲われるという事件が幾度も起きていた。
理由はかぐや候補の持つ業物や大業物の強奪、三千月夜で直にまみえることの叶わない男の武芸者が戦いを挑むなど理由は幾つかある。がしかし、事後無事で済んだ者はいない。
例えば大勢の人間を使いかぐや候補を待ち伏せ、急襲した者がいた。しかしかぐや候補は圧倒的な武力でそれを跳ね返し、蹂躙の勢いで反撃に移る。残った者達は計画の失敗を悟り、散り散りに逃走して町の各所に身を隠す。だが逃げ延びたものは数日以内に全て殺害された。
かぐや候補に害成さんとした者は、一たび加担すれば、ただ利用されただけの女子供であろうと犯罪者の如く無慈悲に殺された。それはどんな理屈も情も通用しない、見えざる鉄の法である。かぐや候補に害成せば殺される。まことに単純明快、それ以外にない。強固な一枚岩である。穴が無いのだ。この法を通破したければ幕府に気付かれるよりも早く超短期戦でかぐや候補を殺すなり虜にするなりし、証拠を残すことなく去り、さらに追手の手から完全に隠れる場所を用意し、自らの犯罪の臭いを消し去って日常生活に戻るという偽装の技術が必須とされる。全てにおいて尋常ならざる手腕を必要とするもので、もちろん現実にこのようなことを成し得た者はいない。

 そしてこのように徹底した対応がとられていく内、かぐや候補への狼藉は急速に減少していった。ただでさえ不意を付いても勝算低いというのに、成功(実例は無いが)したとしても何処からか追手が迫ってくる。

 頭の回る者はすぐにそれが幕府の仕業であることを見抜いていた。

 法規制の無い制裁。

 かぐや候補に害成す者にはこれを加えると暗に示しているのだ。
しかし幕府の使いがやったという証拠は残らない。誰も幕府の無法を訴えることはできない。しかし無法、といったところで民衆からの絶大な人気を集めるかぐや候補である。この行為は民衆の意と同意している。それを咎める存在など皆無に等しいのだ(あるとすれば巻き込まれただけで殺されてしまう者への配慮か)。

 これによって示されるのはかぐや候補へのどこか執着的ともいえる高待遇であり、かぐや候補に手を出すのがどれほどの覚悟を要するかは、推して知るべしである。

「聞こえてんのかい?」

 無言の狼藉者に対し咲夜は再び言葉を発する。しかし殺気は増すばかり。咲夜は舌打ち、最後の通告を与える。

「かぐや候補を襲った者がどうなるか知ってるだろ?」

 咲夜はゆっくり戦闘態勢に入りながら言う。もちろんフリではない。幕府の追手などに頼る気などない。かかってきたら殺し合うまでだ。どちらかの肉体が死傷するまで終わらない。向こうの殺気が言っている。ならばやるまでなのである。黙って死ぬわけにもいかないのだ。そしてそれはすぐにでも始まるだろう。発した忠告が無効であることも連中の殺気がはっきりと教えてくれている。

 咲夜はいよいよ煙管を口に咥える。

「待ってください」

 しかし、咲夜の意思をうやむや誤魔化すように清香が割り込む。

「今だったらまだ間に合いますよ!まだ誰も刀を抜いてませんし、まだ大丈夫です!追手なんて絶対にかかりませんよ!だからやめましょ?」

 清香は一人、この場で誰よりも冷静さを欠いていた。もはや戦闘を回避できないことはわかっているはずである。しかし唐突に突きつけられた命のやりとり。突然介錯を任された子供のように怯えていた。声が上擦っている。呼吸が乱れている証拠だ。手が震えている。恐怖に敷かれている証拠である。

 それを見た咲夜は咥えた煙管を口から放し、発しかけた殺気をしまい込む。

「確かに刀を抜いたら終わりだ。わっち達も忘れる。これでどうだい?おそらく今すぐに散れば追手は免れるんじゃないか?死んじまったらどうしようもないだろ?」

 咲夜は清香を気にしながら言う。こうまで露骨な殺気を持って接触してきたのだ。充分に抹殺対象である。しかし舌先三寸で危険が通り過ぎるのならそれに越したことはない。また、結果として彼らが殺されてもしかたがないとも思う。薄情なようだが、その覚悟あっての行為であるからだ。

 咲夜はちらと清香を見る。今襲われたらまずいのだ。清香がちょっと普通ではない。なにより忌諱する命のとりあい。これを強要されつつある状況で混乱しかけている。こんな状態では戦力にならないどころか、完全にお荷物である。

 しかしあらゆる事象が無常の側面を持つように、狼藉者達は無言で、だが抜刀によって明確な返答を示した。

「やめて・・・」

 清香が絞り出す。今にもへたり込みそうになっている。その間にも狼藉者達はじりじりと間合いを詰めている。

「清香、しっかりしな」

 咲夜は小さく叱咤する。

 清香は震えながら頷く。
が、やはり否定するかのように首を横に振る。まるで恐怖した子供そのもののように。

(本気でまずいかもしれないね・・・)

 そう咲夜が思った瞬間、緊迫した空気が鋭く弾けた。
 二人を囲む凶刃が牙を剥く。
 清香に気を回した僅かな隙に全ての距離が喰われ、眼前、唐突に死が差し迫る。

「清香!」

 咄嗟に襟首掴み、引き倒す。
一瞬遅れて清香の首があった場所、斬撃が空を切る。
咲夜は舌打ち、蹴りを放つが、そいつはすぐにそれを避けながら後退し、再び距離を取る。そして退いたと同時に三方から敵が迫っていた。退路を断つように二人を囲いながらである。もし咲夜と清香が別方向に逃げても囲む側は数の利で相互に人を補強し合い壁を厚くし、迎撃する。単純な陣形だが相手を確実に揉み潰せる。全員が手練なら尚のこと死角は無い。

「ちっ!」

 悪態つく暇もない。舌打ちだけ打つと清香を足元に座らせながら(清香は腰を抜かしたように簡単にへたった)、空いた手で煙管を掴み、口に咥え、高煙亭にする。

「吹っ飛びな!」

 まず頭上で一回転。

 そして二回転目は身体ごと高煙亭を回す。雁首から煙が立ち上り、咲夜は周囲の大気を殴りつけるようにして高煙亭を大きく振り回し、その力を解放する。

 途端、咲夜を中心に爆風が生まれ、周囲のもの全てに風の大波を浴びせる。それにより迫っていた四人を吹き飛ばすには至らなかったが足を止めることには成功した。今は何より寸刻でも時間が欲しい。

「清香、腹括りな」

 一瞬得た間を使い、清香に言う。

「・・・でも・・・」

 震える声で逡巡を吐く。

「このまま殺されるつもりかい?」

 苛立ちを隠さず咲夜は言い、清香の返答を待たずに上を向く。
先に退いた一人が爆風の直撃を免れる樹上にいち早く移動し、頭蓋を叩き割らんと飛びかかってきていた。

(速攻で潰す!)

 咲夜は頭上からの攻撃に対して高煙亭を振り上げる。
両者の得物が火花を散らしてぶつかり合い、高煙亭が圧倒的な破壊力で相手の刀を粉砕する。
しかし相手は得物が接触した瞬間、手を放し、落下の勢いそのままに着地していた。
眼前には無防備な咲夜の胴体。得物を含め、攻撃全てを囮に使ったのである。そして男は腰に差した短刀を素早く抜き、腹を抉るために鋭く突きだす。

 が、乙女の柔肉を抉る前に男の短刀が粉々に砕け、視界を下から上、白煙が通過していく。短刀を握っていた両腕は砕けながら跳ね上がり、逆に自分の胴が剥き出しになっていることに気付く。その認識と同時に激痛が身体を貫き、後方に派手に吹き飛ばされていた。

「まず一人」

 咲夜は呟く。

 男の動きを予想していたわけではない。最初の振り上げで傷を負わせるなり、吹き飛ばせるなりできればいいが、恐らく相手もそこまで甘くないことはわかっていた。
咲夜は振り上げた勢いそのままに掌中で管を転がし、回転させていたのである。
懐に入られたことに驚きはあったが動きが止まることはない。むしろ死中において活路が見えたわけである。咲夜の腹を狙う男がちょうど高煙亭二回転目の軌道に位置していたのだ。咲夜はただそれを回し、男の腕を粉砕して跳ね上げ、ガラ空きになった
鳩尾(みぞおち)を蹴り抜いたのだ

 男は両腕を粉砕され、鳩尾に強烈な打撃を受け気絶している。この場では戦闘不能とみなしてかまわないだろう。まさに清香を説き伏せるには丁度良い戦果である。

「清香、見ただろ?あいつらが殺すつもりでも、別にこっちが殺さなきゃいけないわけじゃない。戦闘不能にすればいいだけだ。それくらいお前なら出来るはずだよ」

 咲夜は再び爆風を生み、牽制しながら言う。

「・・・は、はい・・・はい・・・」

 頷き、龍切に手をかけるが、手足は震えている。

(二人なら随分楽なんだけどね)

 一人潰したとはいえ一対四である。いや、実際には清香も守りながらなのでそれ以上の苦労か。

 そして相手も手練である。すぐに爆風による牽制に対応して、空中からの攻撃と巧く連携を取りはじめる。
唯一救いというか、不可解なのは相手はあれだけ人数がいるというのに飛び道具を使用してこないところであった。もちろん高煙亭を手にしている以上、投石や弓矢などそう恐いものでもないが、神経を狂わす毒矢などの使用を思いつかないわけでもあるまい。

 そして最初から戦闘に参加せずに後方で見据えている男。背の高い壮年の男だが、離れて立っているだけなのにやたらと圧力がある。あいつが参戦しないのは助かるが不気味ではある。

「くそっ、埒が明かないね」

 一人目を潰してからすぐに男達は高煙亭の回天撃を徹底的に警戒し始め、人数によって撹乱しながら波状に攻撃を仕掛けてくる。そして自らは傷を負うことなく、じわじわと咲夜に刀傷を刻んでいく。

 無論、大業物の身体補正は常人とは比べ物にならない回復力をも有する。軽い刀傷位ならば血はすぐに止まり、体力の低下も最低限に抑えられるが、向こうは後方の男を含め余力を大きく残している。
逆にこっちは清香を守りながら多数を相手取り、確実に傷を負っていく。こちらから高煙亭の力でもって無理矢理に相手を撃破することはできそうなのだが、そうすると清香の守りが無くなってしまう。現状打破を考えるとどうあっても清香が障害になってくる。



「清香・・・」

 咲夜は再び三人の男を退け、呟く。

 息が上がってきている。心肺機能も跳ね上がっているはずだが、あまりに精神的圧迫が強い状況の中、呼吸はどうしても乱れる。

「あんた・・・好きでもない殺し合いの場にいってまでも叶えたいことがあるんだろ?こんなところで死んで満足なのかい?」


「・・・・・・・・・・・・」

 清香は黙ってそれを聞いた。

 そしてその一言は驚くほどに清香を正気に立ち戻らせる効果を持っていた。

(・・・そうです)


 言われた通りであった。叶えねばならないことがある。そしてこんなところで死ぬわけにはいかない。何故なら成すべき事を成していないからだ。
意味なしのまま死ぬ。それを許容できるほど彼女は自らの生を安く見積もってはいなかった。

 咲夜の言葉が恐縮する五臓と六腑に沁み入る。恐れが消えたわけではない。そこまで現金に都合良く出来てはいない。しかし身体の震えは止まった。そして自らの願いの為に自らの力を行使する踏ん切りを付ける。それがいかに《殺さず》という甘い幻想の範疇の中のことであろうが、勇敢なことではある。

(目が定まったね)

 清香の変化を見て取った咲夜は素早く手を差し伸べ、清香を引き起こした。そして安堵したような苦笑いを浮かべつつ悪戯に苦言を弄する。

「疲れたから早く助けてくれ。もうさっさと帰って布団の上でごろごろしたいよ、わっちはよー」

「尽力します」

 清香は微かに微笑み、龍切を抜く。

 しかし謙虚な言葉とは裏腹、清香は早々に決着を付ける気であった。自らの不甲斐無さのせいで咲夜に随分傷を負わせてしまった申し訳なさもあるが、現実的にそれが可能であると見て取ったからである。

「来るよ!」

 咲夜が鋭く発する。

 敵は一人。疾風の速さで迫る。

(一人?・・・いや)

 背後に二人。影のように潜んでいる。そして散開。実質3対2。しかし見た目には9対2。

(妙な動きです)

 視界に映る男達の数が増えていた。無論、錯覚であることはわかっていた。だが突然増援が合流したかに見える、濃い錯覚。
 一人が三身、一刃が三刃。二人を囲む。

 速く動けばいいわけではないのであろう。それくらいはわかる。玄妙な足捌きで緩急をつけることによって分身したかに見せ、相手を幻惑する。

「ふん、人を喰った動きだね」

 咲夜も理屈を理解したか、鼻で笑い、言う。実に咲夜らしい捉え方である。確かにこれは人間の視覚の綻びをつき、欺罔(ぎもう)し、錯誤させるいわば幻術の類である。しかし所詮は錯覚。現実の刃は持たない。物理的な行使力を持たず、何刃あろうが肉も骨も切り裂けない


(・・・それなら)

 清香は目を閉じる。

 相手が目を眩ますというのなら、こちらは目そのものを閉じればいい。

(・・・近い)

 閉眼した闇の向こう、殺意が踊る。
 周囲でどれほど夢幻の刺客が舞っていようと、目を閉じ、大気を乱す質量の動きを捉えさえすればおのずと敵の位置は知れる。

(・・・狙いは首筋ですか)

 不規則にうねる気配の中から白刃が隠出し、首筋に流れる血管を斬り裂こうと虚の中から凶刃が閃く。

「ふっ」

 未だ消えないあらゆる恐怖を振り切るように清香は小さく、しかし鋭く息を吐き、闇の中、龍切を振るう。互いの刃が交差し、音を立てて弾き合う。
 清香は再び目を開け、気配を追う。

(右!)

 清香は右前方に首を折り曲げ、眼中に敵を収める。相手は必殺の間合いを潰され分身の挙動が崩れる。霧散する夢幻の刺客。

 清香は柄を握り直し、血流を逆噴射させるようにして龍切に力を送り込む。そして龍切の刀身に炎熱が猛った。

「っ!」

 二撃目までは自らに優位があると思ったか、相手はすかさずに斬り込んでくる。確かに初撃を弾かれはしたが、動き出しは男の方が速い。相手も熟練の者である。勝算あっての行動であろう。
確かに清香の体勢は急所への攻撃を弾いた直後、体勢は万全とは言い難い。そして男は弾かれたとはいえ、その可能性を含めての斬撃である。弾かれることによって生じた外部の力も体内で巧く流動させ、無駄の無い動きで追撃を掛ける。

 それはまだ自らに僅かなりとも利が残っているとの判断であろう。決して愚かな判断ではない。勝敗は常に移ろうものであり、勝機をみたなら隙無く掴むのが勝者の常である。しかし男が唯一判断を間違えたのは清香という人間の潜在能力である。相手の力を見誤る。これは闘争に於いて全てを御破算にする決定的な要因である。もちろんとして命が掛かっていれば命がとぶ。

 男は清香を軸に素早く旋回、背後に回り込み、右の脾腹(ひばら)を突いてくる。
清香は右に龍切を構え、初撃を弾いた体勢のまま重心も右に掛かったままである。体重が掛かり切り、反動の力が得られないので踏み込みが甘くなる。右への攻撃に対し、瞬発的な鋭さが激減しているのである。
 弱いところを迅速に狙う。ここでもやはり男の判断は正しく、容赦が無い

 清香は男の刺突に対し、肩から先、腕の振りだけで龍切を右背後に振り上げる。それは状況を考えれば速度も力もとても足りていない。要は刃を合わせても押し込まれる状況にあるのだ。

 しかしそれだけ清香が刺し込まれている、というわけではなかった。もはや刃を交えるだけで十分であったから。

(ごめんなさい!)

 清香の胸中にあるのは危機ではなく謝罪。全ての流れを見通し、これから自らが相手に加える危害を考えると謝罪を叫ばずにはいられなかった。

 あとはもう一瞬であった。

 男の突き出した刀は、遅く切り上がってきた龍切に触れた途端、刀身に宿る炎熱によって溶解し、水飴のようにぐにゃと切断された。そして清香は腕の振りに合わせて身体を右に反転、男を正面に捉える。

 男は刃を交える瞬間、力を込めるはずであった力点を消失し、前のめり、ほんの僅かに身体の統制を失う。そして不覚を自覚するより早く、清香に足を払われ、さらに前のめり、清香の眼下にを曝す。清香はすかさずそこに手刀を打ち込み男を気絶させた



(咲夜さん)

 自らに向けられた脅威を排した清香は咲夜へ視線を向ける。自分に一人ということは咲夜が二人を相手にしているということである。胸中に不安が走る。



「っつう・・・やっと捕まえたぜぇ・・・」

 咲夜は左手の高煙亭で斬撃を止め、右手で男の手首を掴んでいる。が、その腕からは血が流れ、滴り落ち、地に染みを付けている。しかしそれは皮膚と肉が浅く裂かれただけで、取り返しのつかない傷や致命傷ではないようであった。

「ほっ」

 振り向いた先には地に倒れ伏す咲夜、という最悪の可能性が消え、緊迫した状況であるにもかかわらず、それでも思わず清香の口から安堵が漏れた。

 するとそれを横目で確認した咲夜が喚きだした。

「ほっ、じゃねー!助けろー!」

 しかしうるさく喚きながらも動きには的確な意思が宿る。左手に持った高煙亭で相手を弾き返し、右手で掴んだ男を剛力で地に叩き付け、先の男同様に鳩尾を蹴り抜き、吹き飛ばす。

「清香!右胴!」

 そして咲夜はもう一人、高煙亭で弾き飛ばした男の向こう側にいる清香へ声を上げる。清香の前方には咲夜が押し返した男の背。男はすぐに刀で右胴を庇いながら身体を捻って清香へ向き、そしてガラ空きの左胴を打たれた。悶絶し、動きが止まる。

 清香はすでに龍切の炎熱は消し、刀の背で打ったので殺傷することはなかったが、肋骨を砕く感触に、それ同等の痛みを自らに感じ、苦痛に耐えるかのよう、一瞬、強く目を閉じた。

「さすがにこの状況なら簡単に騙せたね」

 対照的に咲夜は冷徹であった。相手を追い込み、攻撃箇所を指定、咄嗟の防御反応を引き出し、無防備な箇所を攻撃させ弱体化したところ、自らがとどめを刺す。

(悪いけど見せしめにさせてもらうよ)

 咲夜は胴を打たれ動きの凍る男へ一気に近接し、深く身を沈め、硬く固めた拳で男の顎を殴り上げた。それにより男の意識の糸は引き千切れ、無力化する。膝が折れ、身体が沈む。

 咲夜は高煙亭を頭上に掲げて一回転。狼煙のように煙が吹き上がる。咲夜は男を脳天から粉々に打ち砕いて殺すつもりだった。
迷いは無い。回転させた高煙亭に回天の暴威が宿る。そして地を砕かんと振り下ろすのみである。毛髪は千切れ、頭皮は裂け、肉が破れるであろう。血が溢れ、頭蓋は割れ、脳味噌を天に曝すであろう。脳は潰れ、
脳漿(のうしょう)が撒き散り、全ての知性と本能は消え失せるであろう。首の無い肢体は死体となり、地に転がり、ただの壊れた容器となるであろう

 迷いは無かった。迷う必要が無かった。相手にも理由はあるのだろうが、問答無用に襲われるという現状で考慮すべきは自らが生きる理由と命そのものである。命を惜しむ連中にも思えないが、一人も殺さず帰しては締まりが悪過ぎる。見せつける必要があるのだ。手出しするには危険な相手であると。


(成仏しな!)

 唱え、咲夜は高煙亭を振り下ろした。

 清香は息を呑んだ。

 もはや男の意識は切れているではないか。気絶した人間を殺す?
 なぜ?
 咲夜さんが?
 誰が何と言おうとそれは非道な振る舞いではないか。
 あんなに賑やかに笑う彼女が冷たい眼で人を殺す?
 そんなことがあっていいわけないではないか!


「駄目!」

 清香は叫び、地を蹴る。
 崩れ落ちる男の前に立ち、庇うように両手を広げる。左肩すれすれで高煙亭が止まり、身体に爆風が叩きつけられる。着物が激しく波打ち、肩まである髪が爆風にたなびく。直撃していないにもかかわらず左肩に殴りつけられたような鈍痛が走った。


 数寸し、清香を揉む爆風が止むと、咲夜は静かに口を開いた。

「清香。殺しは駄目とか言ってる場合じゃないんだよ」

 咲夜は清香に高煙亭を突き付けたまま言った。
思いのほか、声音は優しかった。しかし殺意は揺るぎない。

「咲夜さんの言うことはわかります」

 清香は微動だにせず、もはや完全に地に崩れ落ちた男を庇ったまま、告げる。

「それなら早くどき・・・」

「でも駄目です!」

 声を荒げる。

「・・・・・・」

 咲夜は黙った。

 清香は頭の良い娘だ。状況を理解している。しかしその上で状況に沿わぬことを言う。

「それはあんたの我儘(わがまま)だろ?

 咲夜の声音は尚も優しい。諭すようでもある。しかし、やはり、その双眸には満々(みつみつ)と殺意が垂れこめている

 だが清香は、その静と暴が混淆したような咲夜の双眸(そうぼう)を恐れず受け止め、首肯する

「はい」

 清香ははっきりと頷いた。毅然と我儘を肯定したのだ。

「・・・・・・」

 再び咲夜は黙る。

 俗に言えば清香は居直っているのだ。論も理も無く、情で動いている。論理無く情動に従うは愚か、愚直なれど、純一不濁の願いを持ってはいる。
人が人を殺める。清香はただそれを許容できぬ、その巨大な一念のみで全ての状況を無視し、信義の気炎を上げ、自らに凶刃を向けた者の盾となっている。

(なんて眼してんだい・・・)

 咲夜もまた清香の双眸を真っ直ぐに受け止める。この娘の言ってることは完全な我儘だ。だけど何故だろうね、自己の利がまったくない。ただわっちを案じるばかりじゃないか。身勝手に人を案ずる。突き詰めればそれも自己の精神に利を追求する行為ではある。本来ならば嫌悪に値する精神の有り様にもかかわらず、身命危うい、抜き差しならぬこの場面。自らの命を顧みず他者の命と尊厳の有り様にのみ腐心する。自己満足ではある。しかし稀な献身でもある。



「・・・わかったよ」

 咲夜が折れた。

 咲夜は嘆息をつき、諦めを口にし、高煙亭を引いた。
今の清香を抜くは容易でないし、それはしたくなかった。少なくともそれは男を殺すことよりも重要に思えたのだ。

 やってしまえば清香が不必要に穢れる気がした。正直、清香は潔癖に過ぎる。それが良いとは思えない。とかく人の世は情欲浮かぶ垢まみれた浮世である。一点の穢れも無い者が一種異様の人とみられるのは世俗の常であり、高潔も過ぎれば異端となりうる。そして清香の精神を構成するものは高潔と高潔と、また高潔である。あまりに危うい。高みにゆくほど奈落は深くなり、踏み外せば地獄へ堕つるのみ。

 しかし清香という類稀な資質を清らかさと可憐な華を、無理に穢すことは躊躇(ためら)われた。情が非情を覆したのだ

「まったく・・・またこんなことがあっても知らないよ?」

 咲夜は言った。口調にはしかしそれさえも興がるような響きがあった。そこには彼女生来の資質である享楽の顔が覗けた。

 清香は安堵し、口を開く。

「よかったです」

「何がだい?」

「咲夜さんが手を汚さずに済んで」

 言って、場違いな仏道の笑みを浮かべる。

「・・・」

 咲夜の表情、心中、ともに複雑にあらゆる感情が乱れて現れる。刀を持ち続ければいつかこの清らかさも消え失せる。それをどう受け止めるべきか咲夜にはわからない。











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